はじめに ── この連載は、会員システム設計論の始まりです。

私は30年以上、会員システムの設計・開発・運用に携わってきました。数多くの会員サイトを立ち上げ、会員管理や継続課金、メール配信、CRM、認証、決済など、会員ビジネスの現場で起きるさまざまな課題と向き合ってきました。

インターネットは進化しました。スマートフォンが普及し、クラウドが当たり前になり、そしてAIが登場しました。しかし、多くの会員システムの基本設計は、30年前から大きく変わっていません。

氏名。
住所。
メールアドレス。
会員番号。

もちろん、それらは必要です。しかし、本当に企業が育てたいものは、氏名でも、住所でも、メールアドレスでもありません。

企業が育てたいものは、人との関係です。

30年間、現場で感じ続けた違和感を、一つずつ整理していく中で、私は一つの考え方へたどり着きました。人との関係を、設計の出発点に置く。その基本原則を、私は Relationship First と呼んでいます。

Relationship First は、新しい製品の名前でも、新しい理論の名前でもありません。人との関係を中心に据え、システムやサービス、運営のあり方を考えるための基本原則です。

この基本原則をもとに、私はその探究を Relationship Architecture、理論を Relationship Theory、そして実践へ落とし込むための設計思想を Relationship OS として整理しています。

この連載は、その考え方を整理し、言葉にし、設計へ落とし込み、そして実装まで考えていくための記録です。

この連載の全体像
第1部
問題提起
なぜ今の会員システムでは足りないのか。「当たり前」を一つずつ問い直します。
第1〜5回 公開中 ・ 一覧を見る
第2部
Relationship OS
人との関係を中心に据える、新しい設計思想を提示します。
第6回 公開中
第3部
Relationship Score など
具体的な実装・運用へと展開していきます。
最終回
Relationship Architecture
全体を振り返り、一つの体系として位置づけます。

この連載は、答えを示すためのものではありません。
未来の会員システム設計論を、読者の皆さまと一緒に考えていくための出発点です。

本題 ── メールアドレスは、これからも会員IDであり続ける

会員システムでは、メールアドレスを会員IDとして利用することが一般的です。私は、この考え方はこれからも変わらないと思っています。メールアドレス以上に普及し、誰もが持ち、デジタル上で本人とつながる手段は、今のところ見当たりません。だからこそ、メールアドレスはこれからも会員IDとして重要な役割を担い続けるでしょう。

しかし、一つだけ見直すべき前提があります。「一人につきメールアドレスは一つ」という考え方です。

現実は、一人が3〜4個のメールアドレスを使い分けている

各種調査では、一人あたりのメールアドレス保有数は約2個前後という結果が報告されています。一方で、実際の会員システムの運営現場では、用途ごとに複数のメールアドレスを使い分ける人は珍しくありません。

私が会員システムを見てきた中では、多くの会員は3〜4個のメールアドレスを使い分けています。これは統計ではありません。会員サポートや名寄せ、重複登録への対応を続けてきた中で得た実感です。しかし、この「現場の実感」こそが、会員システムの設計と現実とのズレを生み出しているのではないかと感じています。

一人あたりのメールアドレス保有数は平均4個。どのメールで登録したか分からないことで、ログイン・パスワードリセットができない、重要なメールが届かない、解約できない、複数アカウントを作ってしまう、ポイント・特典を利用できない、サポートに時間がかかる、といった問題が起こることを示した図。
図解:「どのメールアドレスで登録したか分からない」——それだけで、利用者にも事業者にもさまざまな問題が起きてしまう。

「一人一メールアドレス」が生む5つの問題

私は30年以上、会員システムを設計してきました。現場で起きているトラブルを見ていると、一つの共通点があります。それは、「メールアドレスが違えば別人」という設計が、現実と合わなくなってきていることです。利用者にとっては「同じ自分」でも、システムには「別人」として記録されてしまう。このズレが、さまざまな問題を生み出しています。

1

購入履歴が見つからない

あるお客様から、こんな問い合わせがありました。

購入した商品がマイページに表示されません。

登録されているメールアドレスで調べても、購入履歴は見つかりません。詳しく調査すると、そのお客様は2つのメールアドレスで別々のアカウントを作成していました。商品は、もう一方のアカウントに登録されていたのです。お客様にとっては「同じ自分」。しかし、システムにとっては「別人」でした。

2

無料登録キャンペーンを5回利用

無料会員登録でポイントがもらえるキャンペーンを実施した際、同じ人物と思われる方が異なるメールアドレスで5回登録し、ポイントを受け取っていました。もちろん、すべてが悪意とは限りません。しかし、「メールアドレスが違えば別人」という設計では、重複登録や特典の重複取得を防ぐことは困難です。

3

メールは届かない。でも、そのGmailは登録されていない

最近は、さらに新しい問題も増えています。仕事用メールアドレスを会員IDとして登録し、そのメールをGmailへ転送して利用している方です。送信者認証(SPF / DKIM / DMARC)の強化などにより、転送メールが届かなくなるケースが見られるようになりました。利用者からは、こんな問い合わせがあります。

メールが届きません。

しかし、システムを見ると登録されている仕事用メールアドレスには問題がありません。さらに困るのは、お客様が普段利用しているGmailアドレスが会員システムには登録されていないことです。システムが知っているのは会社のメールアドレス。本人が毎日利用しているのはGmail。この二つが結び付いていないため、運営側も適切なサポートができません。

4

本人なのに、本人確認ができない

ログインできなくなった利用者がサポートへ連絡してきます。しかし、「どのメールアドレスで登録したか覚えていない」というケースは珍しくありません。仕事用だったのか。Gmailだったのか。昔使っていたYahoo!メールだったのか。本人であることは確認できても、システム上のアカウントを特定できず、サポートに時間がかかることがあります。

利用者にとっては一人の自分です。しかし、システムには複数の「別人」が存在しているのです。

5

AIも、間違った前提で学習してしまう

これからの会員システムでは、AIによる分析が当たり前になります。しかし、データベース上で一人の利用者が複数人として登録されていれば、AIもそれを別人として学習します。Gmailでは商品Aを購入。会社のメールアドレスでは商品Bを購入。AIは二人の利用者だと判断します。しかし、実際には一人です。

AIは間違えません。間違ったデータ構造を、そのまま正しく学習するだけです。だからこそ、AI時代に見直すべきなのは分析アルゴリズムだけではありません。その前提となる「一人一メールアドレス」という設計思想そのものではないでしょうか。

事業者が負担している見えないコスト

「一人一メールアドレス」という設計による影響は、利用者だけの問題ではありません。事業者側も、気付かないうちに大きなコストを負担しています。

気付かないうちに積み上がる、事業者側のコスト
  • 問い合わせ対応に時間がかかる
  • 同じ会員が複数登録され、会員分析の精度が下がる
  • ポイントやクーポンの重複付与によるコストが発生する
  • メールが届かず、重要なお知らせやキャンペーン情報が伝わらない
  • 会員との接点を失い、継続率やLTV(顧客生涯価値)が低下する

つまり、「一人一メールアドレス」という前提は、会員体験だけではなく、事業者の売上や運営コストにも影響を与えているのです。

なぜ、今なのか

ここまで読んで、「複数のメールアドレスを持つことは、昔からあったのではないか」と思われた方もいるでしょう。その通りです。

では、なぜ私は今、「一人につきメールアドレスは一つ」という前提を見直すべきだと言っているのでしょうか。

理由は、メールアドレスという仕組みが変わったからではありません。人とメールアドレスとの関係が、大きく変わったからです。

以前は、メールアドレスは「連絡を取るための手段」でした。しかし現在では、GoogleやApple、Microsoftをはじめとするさまざまなサービスのアカウントとなり、仕事、プライベート、趣味、決済、AIサービスなど、用途に応じて複数のメールアドレスを使い分けることが当たり前になっています。

さらに、Appleの「メールを非公開(Hide My Email)」のように、サービス側が利用者ごとに新しいメールアドレスを提供する時代も始まりました。

そして、もう一つ大きな変化があります。

AIです。

これからはAIが会員データを分析し、人とのコミュニケーションを支援する時代になります。もし一人の利用者が複数の会員として登録されていれば、AIもその前提で学習します。

AIは間違えません。間違ったデータ構造を、そのまま正しく学習するだけです。

だからこそ今、見直すべきなのはAIではありません。AIが正しく理解できる会員システムの設計そのものなのです。

日本では、以前から複数のメールアドレスを使っていた

ここで、「一人が複数のメールアドレスを持つことは昔からあったのではないか」と思われる方もいるでしょう。その通りです。2000年代、多くの人は、

を使い分けていました。当時の会員システムでも、「PCメール」「携帯メール」の二つを登録できる仕組みは珍しくありませんでした。しかし、当時と現在では決定的に違うことがあります。

当時のキャリアメールは、携帯電話という一つの端末に強く結び付いた連絡手段でした。文字数にも制限があり、日本ではポケベル文化を受け継ぐような、「短いメッセージを素早くやり取りする」ためのコミュニケーション手段でもありました。つまり、その頃のメールアドレスは、「携帯電話」という端末の一部だったのです。

しかし、スマートフォンの登場によって状況は大きく変わりました。スマートフォンは、単なる携帯電話ではありません。ポケットに入るコンピュータです。その中で、GoogleやApple、Microsoftといったプラットフォームが生活の中心となり、メールアドレスの役割も大きく変わりました。

メールアドレスは、単なる連絡先ではありません。Googleアカウント。Apple Account。Microsoftアカウント。クラウドストレージ。AIサービス。オンライン決済。そして、数多くのWebサービスへログインするためのデジタルアイデンティティへと進化しました。さらに現在では、一人が用途ごとに複数のGmailを使い分けることも珍しくありません。Appleの「メールを非公開(Hide My Email)」のように、サービス側が利用者ごとに複数のメールアドレスを自動生成する仕組みも普及し始めています。

つまり、変わったのはメールアドレスという技術ではありません。メールアドレスの役割です。ガラケー時代、メールアドレスは「携帯電話という端末に紐づく連絡先」でした。スマートフォン時代、メールアドレスは「人のデジタルアイデンティティ」として、多くのサービスをつなぐ存在へと変わりました。

だからこそ、会員システムも「一人につきメールアドレスは一つ」という前提ではなく、「一人が複数のメールアドレスを持つ」という現実を前提に設計を見直す時期に来ているのではないでしょうか。メールアドレスが増えたことが問題なのではありません。「一人につきメールアドレスは一つ」という設計思想が、現実と合わなくなってきたこと。それこそが、私が本当に問い直したいことなのです。

Google、Apple、Microsoftは、すでに複数メールアドレスを前提にしている

実は、この考え方は特別なものではありません。私たちが毎日利用しているITサービスは、すでに「一人が複数のメールアドレスを持つ」ことを前提に設計されています。

GoogleRECOVERY EMAIL

ログインに利用するメールアドレスとは別に、再設定用(予備)のメールアドレスを登録できます。アドレスが変わっても本人確認やアカウント復旧ができる仕組みです。

AppleHIDE MY EMAIL

連絡先メールに加え、iCloud+の「メールを非公開(Hide My Email)」では、サービスごとに異なるアドレスを自動生成。別々に見えて、すべて同じ利用者へ転送されます。

MicrosoftALIAS

Outlook.comでは複数のエイリアス(別名メールアドレス)を利用できます。仕事用・個人用・用途別を、一つのアカウントでまとめて管理できます。

つまり、Google、Apple、Microsoftはいずれも、「一人が複数のメールアドレスを持つ」ことを前提にサービスを設計しています。これは偶然ではありません。メールアドレスが複数になることは、利用者のライフスタイルの変化だからです。

時代は、さらに次の段階へ

Appleの「メールを非公開」のように、サービス側がアドレスを自動生成する仕組みも広がっています。これからは「利用者が複数のメールアドレスを持つ時代」から、「サービスが利用者に複数のメールアドレスを提供する時代」へ変わりつつあるのです。だからこそ、会員システムも同じ変化に対応する時期に来ているのではないでしょうか。

複数のメールアドレスではなく、複数の「デジタルアイデンティティ」を持つ時代

もちろん、一人が複数のメールアドレスを登録できるようにすれば、それだけですべての問題が解決するわけではありません。

私は、この問題を「複数メールアドレス」の問題というよりも、一人が複数のデジタルアイデンティティ(Identity)を持つ時代になったと捉えています。

例えば、一人の利用者でも、このようにメールアドレスを使い分けていることは珍しくありません。

さらに、現場ではもう一つ非常によくあるケースがあります。以前よく使っていたメールアドレスから、新しいメールアドレスへ移ることです。

転職をして会社のメールアドレスが変わる。携帯電話会社を変更してキャリアメールを使わなくなる。Yahoo!メールからGmailへ移る。あるいは、迷惑メール対策のために新しいメールアドレスを使い始める。

利用者にとっては、どれも「同じ自分」です。昔のメールアドレスも、今のメールアドレスも、自分自身であることに変わりはありません。

最近では、SNSでも「本アカ」と「裏アカ」を使い分けることは、ごく自然な行動になっています。メールアドレスも同じです。利用者は、目的や立場、そしてライフスタイルの変化に合わせて、自分自身を使い分けています。

つまり、メールアドレスが増えている理由は一つではありません。用途によって増えることもあれば、時間の経過とともに増えることもある。

しかし、どれだけメールアドレスが増えても、その人は一人です。

ところが、多くの会員システムでは、「メールアドレスが違えば別人」という前提で設計されています。

利用者にとっては一人の自分。システムにとっては複数人。この認識のズレこそが、購入履歴が分散する、重複登録が発生する、メールが届かない、本人確認に時間がかかるといった、さまざまな問題の根本原因になっているのです。

だから私は、「複数メールアドレスに対応する」という発想では足りないと考えています。必要なのは、一人の人が複数のデジタルアイデンティティを持つことを前提に設計すること。

これが、これからの会員システムに求められる新しい設計思想ではないでしょうか。

まとめ

私は、メールアドレスという仕組みが古くなったとは思っていません。むしろ、メールアドレスはこれからも会員IDとして最も重要な存在であり続けるでしょう。だからこそ、変えるべきはメールアドレスではありません。「一人につきメールアドレスは一つ」という設計の前提です。

利用者のライフスタイルは大きく変わりました。

利用者にとっては、どれも「同じ自分」です。しかし、多くの会員システムでは、メールアドレスが変われば別人になります。この設計のズレが、購入履歴の分散、重複登録、本人確認の難しさ、メール不達、そしてAIによる誤った分析へとつながっています。

変わったのはメールアドレスという技術ではありません。
人とメールアドレスとの関係です。

だからこそ、会員システムも「一人が複数のデジタルアイデンティティを持つ」という現実を前提に設計を見直す時期に来ているのではないでしょうか。

しかし、私が本当に問い直したいのは、メールアドレスだけではありません。

私たちが30年以上当たり前のように使い続けてきた会員マスターの基本構造そのものです。

この連載では、一つひとつの「当たり前」を問い直しながら、AI時代に求められる新しい会員システムの設計思想を考えていきます。第1回は、その最初の問いでした。

よくある質問(FAQ)

Q会員IDをメールアドレス以外にすれば、この問題は解決しませんか?
A

独自の会員番号などをIDにする方法もありますが、利用者が覚えにくく、ログインのハードルが上がるという別の問題が生まれます。メールアドレスは「本人へ確実に連絡できる」という会員IDとしての本質的な価値を持っています。IDを置き換えるのではなく、「一つのアカウントに複数のメールアドレスを紐付けられる」設計にすることが現実的です。

Qすでに重複登録が大量にある状態でも、あとから名寄せできますか?
A

はい、可能です。氏名・電話番号・住所・決済情報など複数の属性から「同一人物の候補」を抽出し、運営の確認を経て統合していきます。誤統合を避けるため、PayAI NEXTでは一括自動統合ではなく、候補提示と段階的なマージを前提にした設計をおすすめしています。

Q複数メールアドレスを許可すると、不正利用が増えませんか?
A

むしろ逆です。「メールアドレスが違えば別人」という設計のままでは、同一人物が別アドレスで何度でも登録できてしまいます。複数アドレスを一人に束ねて管理することで、重複登録や特典の重複取得を検知しやすくなります。

「一人一メールアドレス」の前提を、見直してみませんか

重複登録や名寄せ、メール不達にお悩みの方は、ぜひお気軽にご相談ください。PayAI NEXTでは、現在の会員データの状態をヒアリングし、複数メールアドレスを前提とした会員システムの設計・移行プランをご提案しています。

岸本 健志
会員ビジネスLab 主任研究員 / ハートランドITイノベーション代表

1997年よりインターネット業界に従事。2007年の創業以来、EC、メディア、SaaS、コミュニティサイトなど数多くの会員ビジネスの立ち上げと成長を支援。

30年近く会員システムの設計・運用に携わる中で、システムは「会員を管理するもの」から「人と人との関係(Relationship)を育てるもの」へ転換すべきだと確信。現在は、AI時代における次世代のシステム設計思想として「Relationship OS」を提唱しています。

また、自身も宿泊施設の運営で現場に立ち続け、『起きている時間はすべて仕事であり、システムへの探求』という圧倒的な熱量で、会員ビジネスの未来に向き合っています。

「人との関係は設計できるのか」という問いに、これからも人生をかけて愚直に向き合い続けていきます。

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