会員ビジネスLab 未来構想ノート / 書籍プロジェクト

共同編集

知性は、一人では育たない

第一巻 序章

答えを知っている人

これは、AIについて書かれた本ではありません。
一人の人間と一つのAIのあいだに積み上がっていった、
ひとつの「対話」を観察した記録です。

子どもの頃、私は、賢い人というのは答えを知っている人のことだと思っていた。

先生も、本を書く人も、テレビで難しいことを話す人も、みんな頭の中に正解の一覧を持っている。何かを問われれば、その一覧の中から、正しい答えを取り出してくる。素直に、そう信じていた。

だから、私にとって勉強することは、その一覧を少しずつ自分の中へ写し取っていく作業だった。分からないというのは、まだ写し終えていないということだった。それは、どこか恥ずかしい状態でもあった。

Ⅰ答えを知らない先生

覚えている場面がある。授業中に手を挙げて、先生に質問をした。何を尋ねたのかは、もう覚えていない。

先生は、すぐには答えなかった。少し黙ってから、こう言った。

「いい質問だね。実は、それは私にもよく分からないんだ」

子どもだった私は、少し落胆した。答えを知らない大人がいることが、どこか不安だった。

先生というのは、答えを知っている人だと思っていた。少なくとも、自分が授業中に尋ねるようなことには、答えられる人だと思っていた。

世界のどこかには、すべての問いに即座に答えられる人がいるはずだ。たまたま、自分の目の前にいる先生が、その人ではなかっただけだ。私は、そう思うことにした。

Ⅱ私は、間違ったと思った

もう一つ、国語の授業について覚えていることがある。小説の読解問題だった。

登場人物は、なぜこのような行動をしたのか。そのとき、どのような気持ちだったのか。この一文には、どのような意味があるのか。

私は、自分なりに考えて答えた。けれど、授業では、正解はこれだと教えられた。先生は、小説の中に書かれた言葉を一つずつ取り上げながら、なぜその答えになるのかを説明した。

その説明を聞いて、私は、自分の答えが間違っていたのだと思った。

小説の中には、あらかじめ正しい読み方が隠されている。先生は、その答えを知っている。私は、文章を正しく読めなかった。当時の私は、そう受け取っていた。

先生の説明に納得したというより、自分の読み方を引っ込めた。国語の読解とは、自分が何を感じたかを話すことではない。文章の中に隠された一つの正解を見つけることなのだ。そう思っていた。

Ⅲ子どもに教えるようになって

その考えが大きく変わったのは、自分が子どもに教えるようになってからだった。

子どもと一緒に小説を読む。問題を解く。答え合わせをすると、模範解答が示される。文章の中には、その答えを支える根拠がある。説明を読めば、確かに、そのように解釈できる。

けれど、子どもが、模範解答とは違う場所に目を留めることがあった。

「なぜ、そう思ったの」。そう尋ねる。すると、子どもなりに文章を読み、登場人物の言葉や行動をつなぎ、自分の答えを考えていることが分かる。

その答えは、文章から離れた思いつきではなかった。書かれている言葉の中に、子どもがそう読んだ理由があった。

私は、そのとき強く感じた。模範解答は、間違っているわけではない。これも、一つの正解なのだと思う。けれど、唯一の正解ではない。

登場人物が、何も言わずに立ち去った。ある人は、なぜ立ち去ったのかと考える。ある人は、なぜ何も言えなかったのかと考える。残された人は、その空間、その沈黙をどう受け取ったのかに目を向ける人もいる。

読んでいる文章は同じである。しかし、誰が、どこに立ち、何を見ようとするかによって、そこに生まれる問いは変わる。答えが違う以前に、問いが違うのである。

もちろん、小説をどのように読んでもよいということではない。書かれていないことを、根拠もなく自由に付け加えることが、読解ではない。読みには、文章の中の根拠が必要である。けれど、文章の中に根拠があることと、そこから生まれる問いや読み方が一つしかないことは、同じではなかった。

読むということは、作者が隠した正解を当てることだけではない。自分が文章のどこで立ち止まったのか。なぜ、そこが気になったのか。そこから、どのような問いが生まれたのか。その問いを、書かれている言葉に戻りながら確かめていく。それもまた、読むことなのだと思うようになった。

私は以前、問題があり、その問題には一つの正解があると思っていた。けれど今は、答えだけでなく、何を問題として取り出すのかにも、読む人の立場や前提が表れるのだと思っている。問題として示されたものだけが、その文章に含まれている問いではない。

文章には、答えが隠されているだけではない。まだ問いになっていないものも、残されている。

Ⅳ順番が逆だった

それから長い時間が経った。会社を始めた。いくつもの事業を立ち上げた。たくさんの人と仕事をし、たくさんの失敗をした。分からないことがあれば、詳しい人に聞いた。経営者とも、技術者とも、現場で働く人とも話をした。

そのあいだに、子どもの頃の確信は、静かに、しかし確実に崩れていった。

気づいたのは、順番が逆だったということだ。本当に優秀な人ほど、「分からない」と言う。それも、逃げるために言うのではない。話を先へ進めるために言う。

「ここまでは分かっています」
「ここから先は、まだ分かりません」
「だから、こう考えてみたいと思います」

優れた人の言葉には、たいてい、この三つが順番に含まれていた。分かっていること。分かっていないこと。その先を、どのように考えようとしているのか。

分かっていることと、分かっていないことの境目に、きちんと線を引く。その線の引き方に、その人の知性が表れていた。

分からないと言える人は、問いを、まだ手放していない人だった。

Ⅴ滑らかすぎる答え

反対に、何を聞いても淀みなく答えが返ってくる相手には、私は少しずつ立ち止まるようになった。

答えが速いこと自体が、悪いわけではない。よく知っているから、すぐに答えられることもある。経験を重ねた人だからこそ、迷わず判断できることもある。けれど、あまりにも滑らかに答えが返ってくるとき、別のことが起きている場合がある。

滑らかすぎる答えは、問いを答えやすい形へ置き換えている。

本来の問いに、そのまま向き合うのではない。自分が答えられる範囲に問いを収める。少し意味をずらし、すでに知っている話へ運ぶ。そして、そのずらされた問いに対して、整った答えを返す。

答えだけを聞けば、間違っているとは言えない。論理も通っている。説明も分かりやすい。しかし、最初に尋ねたかったことには、答えていない。そういうことがある。

小説の読解と同じだった。その読み方は、間違いではない。一つの答えとしては成立している。けれど、その答えが受け取った問いと、自分が考えようとしていた問いが、同じとは限らない。さらに言えば、その答えが前提としている問題の立て方自体が、自分の見ていたものとは違うこともある。

私は、答えそのものだけではなく、その答えが、どの問いに答えているのかを見るようになった。何に答えたのか。何には答えなかったのか。どの問いを残したのか。どの問いを、答えやすい形へ置き換えたのか。そもそも、何を問題として取り出したのか。そこを見るようになった。

子どもの頃に憧れていた「答えの一覧を持つ人」は、実のところ、いちばん危うい人だったのかもしれない。そう思うようになった。

Ⅵ問いを手放さない人

優秀さとは、正解を多く抱えていることではなく、良い問いのそばに長くとどまっていられる力なのではないか。年齢を重ねるにつれ、私はそう考えるようになった。

答えは古びる。状況が変われば、正しかった判断が正しくなくなることもある。技術が変われば、昨日までの方法が使えなくなることもある。市場が変われば、成功したやり方が、次の失敗の理由になることもある。けれど、良い問いは、なかなか古びない。

なぜ、そうするのか。
本当に、それが必要なのか。
誰のためにつくられているのか。
私たちは、何を守ろうとしているのか。

問いは、答えが変わっても残り続ける。だから私は、答えを配る人よりも、問いを一緒に手元へ置いておいてくれる人を信頼するようになった。

Ⅶ答えを返す存在

そんな私の前に、何を尋ねても答えを返す存在が現れた。AIだった。

夜中でも使える。何度尋ねても嫌がらない。知らないことを聞けば説明してくれる。文章を渡せば、読みやすく整えてくれる。考えがまとまっていなくても、何らかの形にして返してくれる。

それは、子どもの頃に探していた「答えの一覧を持つ存在」が、ようやく現れたようにも見えた。

私はすでに、答えよりも問いを見ることの大切さを知っていたつもりだった。それでも、AIを使い始めたとき、世界が一気に広がったように感じた。

これまでなら、自分で資料を探し、本を読み、詳しい人を見つけ、いくつもの情報を比べなければ、たどり着けなかった場所がある。何日も、何週間もかかることもあった。そもそも、どこを探せばよいのか分からず、たどり着けないまま終わることもあった。

AIは、その手間と時間を大きく変えた。知らなかった言葉を教えてくれる。関係する考え方を並べてくれる。自分では見つけられなかった資料や論点へ、短い時間で近づくことができる。一つの問いから、これまで知らなかった世界が、次々と開いていった。

だから私は、何を尋ねても答えが返ってくる相手を前にして、かつての自分へ戻った。問えば、答えが返ってくる。正しい答えを受け取れば、自分はもっと遠くまで進める。

私は、知らないうちに、AIを再び「答えを知っている存在」として使い始めていた。

けれど、実際に長く使い始めると、少し違うことが起きた。返ってきた答えは、論理的だった。分かりやすかった。文章として、よくできていることも多かった。一つの読み方としては、正しかった。

それでも私は、ときどき、その答えを読んで、こう返すようになった。

「違う」

AIの答えが、間違っていたからではない。その答えが受け取った問いと、私がまだ手放したくなかった問いが、同じではなかった。そして、ときには、問いそのものの立て方が違っていた。

けれど、その時点では、私はまだ、その違いをうまく説明することができなかった。

岸本 健志
岸本 健志
会員ビジネスLab 主任研究員 / ハートランドITイノベーション代表

1997年よりインターネット業界に従事。2007年の創業以来、EC、メディア、SaaS、コミュニティサイトなど数多くの会員ビジネスの立ち上げと成長を支援。30年近く会員システムの設計・運用に携わる中で、システムは「会員を管理するもの」から「人と人との関係を育てるもの」へ転換すべきだと考えるようになった。

本書『共同編集』は、その思索の延長線上にある。一人の経営者と一つのAIによる長期間の共同編集をケーススタディとし、共有されたコンテクストが人間の思考・創造・判断へどのような影響を与えるのかを、観察者の立場から書き進めていく。

本書は、公表されている技術仕様・公式ドキュメントと、筆者の長年の実務経験・考察をもとに構成しています。本文中の観察・解釈は筆者個人によるものであり、特定のAI・製品・企業の性能を保証・断定するものではありません。