会員ビジネスLab 未来構想ノート / 書籍プロジェクト

共同編集

知性は、一人では育たない

第一巻 第五話

その街の始まり

巨大な産業の街にも、始まりがあった。
道路も十分にない農村で、一人の農民が手に入れた一台の印刷機。
そこから、小さな仕事が少しずつ広がっていった。

小さな工場で、自分の手を動かしながら技術を磨いている人がいる。一方で、数多くの社員と設備を抱え、世界中の企業から仕事を受けている経営者がいる。規模はまったく違っていた。けれど、どちらも同じ街の中にいた。

私は、そこで考え始めた。

なぜ、この街には、小さな工場と巨大企業が同時に存在しているのだろう。なぜ、世界中から仕事が集まってくるのだろう。なぜ、ほかではできないと言われた仕事が、この街では形になるのだろう。

その答えを知るには、目の前にある工場だけを見ていても足りなかった。この街は、どのように始まったのか。私は、そこまで遡ってみたくなった。

最初から工場が並んでいたわけではない。最初から世界中の企業が仕事を持ち込んでいたわけでもない。

道路も十分に整っていない、小さな農村。
一人の農民。
一台の手動印刷機。

始まりにあったのは、それだけだった。

Ⅰ一人の農民と、一台の印刷機

一人の農民が、古い手動印刷機を手に入れた。電気で動く大きな機械ではない。人の手で一枚ずつ動かす、小さな印刷機だった。

その人は、国営企業が引き受けないような、小さな仕事を請け負った。

名刺や祝い袋、簡単な包装紙。

一件ずつを見れば、大きな仕事ではなかった。大量の注文があるわけでもない。高い利益が約束されているわけでもない。それでも、頼まれた仕事を引き受けた。

少ない注文でも断らず、急ぎの仕事にも応え、難しいと言われた仕事でも、できる方法を考える。

そうして、一件の仕事を終える。すると、また次の仕事が来る。評判を聞いた人が、別の仕事を持ってくる。

一人では受けきれなくなると、近くに住む人が手伝った。手伝った人は、そこで印刷の仕事を覚えた。その中から、自分でも印刷機を持つ人が現れた。その人のところにも、また仕事が集まった。

一人から二人へ。二人から十人へ。印刷の仕事は、少しずつ村の中へ広がっていった。

誰かが大きな工場を建て、村の人たちを一斉に雇ったのではない。小さな仕事があった。その仕事を引き受ける人がいた。仕事を覚えた人が、次の仕事を始めた。その繰り返しだった。

Ⅱ印刷だけでは、終わらない

印刷の仕事が増えると、印刷機だけでは足りなくなる。

印刷するための版が必要になり、インクが必要になり、紙やフィルムが必要になる。印刷したものを切る仕事、折る仕事、糊を貼る仕事、巻き取る仕事も、梱包する仕事も必要になる。

一つの印刷物を完成させるには、印刷以外にも多くの仕事があった。最初は、一人の人や一つの会社が、いくつもの作業をしていたのかもしれない。しかし、仕事が増えるにつれて、それだけでは間に合わなくなる。

版をつくる人、インクを扱う人、材料を集める人、加工を引き受ける人が現れる。機械を修理する人も必要になる。

一つの仕事が増えると、その周りに、別の仕事が必要になる。印刷会社が増えれば、インクを扱う会社が必要になる。機械が増えれば、機械を修理する人が必要になる。製品の種類が増えれば、それぞれに合った加工をする会社が必要になる。

印刷の仕事が広がるにつれて、その周囲に新しい仕事が生まれていった。

Ⅲ同じ会社が増えたわけではない

私は最初、「一万社の街」と聞いて、同じような印刷会社が一万社並んでいる光景を想像した。しかし、実際には違っていた。

版だけをつくる会社があり、一つの加工だけを引き受ける会社があり、特殊な素材への印刷を得意とする会社がある。機械の改造に強い会社も、材料の調達に詳しい会社もある。

大量生産を得意とする会社もあれば、少量の注文に対応する会社もある。一見すると、同じような仕事をしているように見える。けれど、詳しく見ると少しずつ違っていた。

扱う素材が違い、得意な印刷方法が違い、持っている機械が違う。受けられる数量も、仕上げられる速さも違う。

一つの工程を長く続けてきた会社がある。一つの素材を扱い続けてきた会社がある。一つの技術だけを磨き続けてきた人がいる。

一万社という数字は、同じ会社が一万社あるという意味ではなかった。異なる仕事をする会社が、同じ地域に数多く存在していたのである。

Ⅳ仕事を覚えた人が、次の仕事を始める

この街の成長は、大きな計画から始まったわけではなかった。

ここに印刷会社をつくり、隣にはインク工場を置き、その先には製版会社をつくる。何十年後には、世界中から仕事が集まる街にする。

そのような完成図が、最初からあったわけではない。

目の前に仕事があった。その仕事を引き受ける人がいた。仕事が増えれば、手伝う人が増えた。手伝った人は、そこで仕事を覚えた。覚えた人の中から、新しく仕事を始める人が現れた。

もちろん、すべてが成功したわけではない。仕事が続かなかった人もいただろう。買った機械が役に立たなかったこともあったはずである。会社を始めたものの、閉じた人もいただろう。

それでも、そこで覚えたことまで消えるわけではない。技術を覚えた人が、別の会社で働く。違う機械を使う。別の仕事を引き受ける。そこで、また新しいことを覚える。

そうした人の移動も、この街に仕事を広げていったのだと思う。

Ⅴ始まりは、一つではなかった

私は、この街の始まりを探していた。一人の農民が、一台の手動印刷機を手に入れた日。そこが始まりなのだと思っていた。けれど、話を聞いているうちに、始まりは一つではないように思えてきた。

最初の仕事を、隣の人が手伝った日。
仕事を覚えた人が、自分の印刷機を持った日。
印刷だけでは足りなくなり、別の工程を引き受ける人が現れた日。
新しい機械を手に入れた日。
初めて、ほかの会社へ仕事を頼んだ日。

その一つひとつが、この街の始まりだったのかもしれない。

街は、一日で生まれたのではない。
一つの決断によって生まれたのでもない。

その時々にいた人たちは、自分が一万社の街をつくっているとは思っていなかったはずである。

目の前に来た仕事を引き受ける。できなければできる方法を考え、一人で足りなければ誰かに手伝ってもらい、必要な技術がなければ覚え、必要な機械がなければ手に入れる。

その繰り返しの中で、会社が増えていった。

Ⅵ街の中を流れる仕事

私は、その街を車で走った。一つの工場を通り過ぎる。その先にも工場がある。少し走ると、また別の工場が現れる。

大きな工場もあった。小さな工場もあった。最新の設備が並ぶ工場もあれば、長年使われてきた機械が動いている工場もあった。それぞれの会社は別々だった。経営者も違う。働いている人も違う。得意な仕事も違う。

一人の農民と、一台の印刷機。そこから始まった小さな仕事は、多くの人へ渡っていった。仕事を覚えた人が増えた。会社が増えた。扱う工程も増えた。やがて、同じ地域の中に、異なる仕事をする会社が並ぶようになった。

Ⅶ私の得意分野のはずだった

私は、企業のDXに関わる仕事をしている。DXとは、デジタルの力で会社の仕事のやり方そのものを変えていく取り組みのことである。

会社の業務を聞き、情報の流れを整理し、課題をシステムとして形にする。最近では、AIを使って業務や判断を支えるAXにも取り組んでいる。AIが人の仕事を補い、ときには判断の一部を担うようになる。DXの先にある、次の段階だと考えている。

しかも、それは私の得意分野だった。

だから、この街を見ながら、私は、その仕組みを知りたいと思った。

これほど多くの会社が関わる仕事を、どのように管理しているのだろう。

どこに情報が集まり、誰が全体を見ているのだろう。

中国ではWeChatが広く使われている。それなら、WeChatが会社と会社をつないでいるのではないかとも考えた。

けれど、聞いてみると、少し違っていた。

画像や動画を送ることはある。社内で情報を共有することもある。

しかし、街全体の仕事が、WeChatの上で管理されているわけではなかった。

自分の得意分野なら、何を見ればよいかは分かっているつもりだった。

けれど、目の前で動いていたものは、私が実務でつくってきたDXやAXとは違っていた。

では、この街では、何が会社と会社をつないでいるのだろう。

私は、一つの工場を出た製品が、そのあとどこへ向かうのかを追ってみることにした。

岸本 健志
岸本 健志
会員ビジネスLab 主任研究員 / ハートランドITイノベーション代表

1997年よりインターネット業界に従事。2007年の創業以来、EC、メディア、SaaS、コミュニティサイトなど数多くの会員ビジネスの立ち上げと成長を支援。30年近く会員システムの設計・運用に携わる中で、システムは「会員を管理するもの」から「人と人との関係を育てるもの」へ転換すべきだと考えるようになった。

本書『共同編集』は、その思索の延長線上にある。一人の経営者と一つのAIによる長期間の共同編集をケーススタディとし、共有されたコンテクストが人間の思考・創造・判断へどのような影響を与えるのかを、観察者の立場から書き進めていく。

本書は、公表されている技術仕様・公式ドキュメントと、筆者の長年の実務経験・考察をもとに構成しています。本文中の観察・解釈は筆者個人によるものであり、特定のAI・製品・企業・人物の性能や評価を保証・断定するものではありません。